絵を描いてきた昔の話。uraart

私がTwitterで書いた昔の出来事を時系列に並べて追加中です。
断片的なエピソードの集積ですが、
私がどんな人かわかっていただけると嬉しいなと思います。


昨日2点、私のNFTが売れた。私は絵で生計を立てている訳ではなし、十数年まえに展覧会をしたきり、私が絵を売る機会はもう無いと思っていた。驚いたし、うれしかった。

しかし、私の絵を買ってくださった方には、私が正体不明すぎではないかと思った。

もちろん、絵だけを気に入っていただけたら本望だけれど、私のことを少しはお知らせした方が、より楽しんでいただけるのかもしれない。

私の人生は普通ではない出来事もあったかもしれず、笑えることもあると思うので、少しずつ、Twitterに残していけたらと思う。



世界は未知の塊

誰でも同じかもしれないけれど、何もわからない子供でした。
特に私は、物事を理解するのが遅かったのだと思います。

まだ、幼稚園に入る前だと思います。
ある朝、9時過ぎと朝としては遅い時間に
私が目を覚ますと、母がそばにいて、
兄はもう学校に行ったと、外を指差すんです。
窓に駆け寄って外を眺めたら、窓の内側に雫が垂れ、
外はものすごく寒そうで不安に満ちたところに思えました。

私は学校という概念を理解していませんでしたから、
なんでこんなポカポカした家から、兄は出てどこかに行ってしまったかと不思議に思いました。4歳ぐらいだったでしょうか?その頃は兄もまだ元気で、母もいつも自分のそばにいて、本当に家の中がポカポカした暖かい空間で、そこから出ないで、どこにも行きたくなかったのを覚えています。

また幼稚園のお遊戯会だったと思います。
動物たちが森で何やら、会議する話でした。
私はスズメの役だったと思います。しかし、鳥は他にも、鳩とかカラスとか色々いたんですよね。だから、「鳥」グループのスズメな訳だったのですが、それがよくわからない、先生は「鳥の皆さーん」とか「スズメの皆さーん」とか言います。
自分が「鳥」の役なのか、「スズメ」の役なのかで混乱しました。

他の、馬や犬などだったら簡単なのにと思ってすごく苦しかったです。

結局、お遊戯会当日、どのかぶりものをかぶるのかもわからず、どこに立てばいいのかもわからず、卒園アルバムに突拍子もないところにぼんやりした顔で立っていた私が残っています。


幼稚園で死にそうになった話
これは以前にスペースを試した時に話した出来事ですが、
幼稚園の時に死にかけたことがあります。

私の通っていた幼稚園はバスで送迎されていて、家から随分と離れていました。それでバス待ちで、一年上の竹島くんと園内の遊具で遊びながら待っていたんです。

体操の吊り輪みたいな遊具で、私の頭が入る大きさぐらいの鉄の輪が、鎖でぶら下がっているものでした。竹島くんは暴れん坊で、鉄輪に足をかけて登り、ビュンビュンとブランコ漕ぎをしていました。

それがうらやましかったのですが、私は背が低い子供でしたので、その輪にどうしても登ることできず、悪戦苦闘しているうちに頭がその輪に入ってしまったのです。足はギリギリ地面に届かず、首吊り状態ですね。

やばいと幼稚園児の私も思いました。頭を入れた時は下を向いた状態で入れたのですが、抜こうともがいてる時は、前を向いているので、頭の大きさが大きく、全く抜けない。なんとか、握力で自分の体を支えることしかできません。隣で遊んでいた竹島くんの怯えた表情が見えました。竹島くんは本当に信頼の置けないやつで、私の靴はドブに投げ込むし、巨大な石を私に落として頭に大怪我させたり(この時は血まみれのを私を置いて逃げてしまった)、私の大事なものをいつも盗む酷いやつでした。直感でこいつは絶対助けてくれないと思ったのですが、案の定、彼が走って逃げていく姿が見えました。

視界が白くなっていったのを覚えています。かなり長かったような、自分が消えていく感じ。

すると、竹島くんが幼稚園の先生の手を引いて戻ってくるのが見えたのです。

先生は私を持ち上げて助けてくれました。それでもなかなか頭が抜けなかったです。私は頭でっかちでギョロ目のURAちゃんと言われていました。体を真横に持ち上げて頭も横にした状態で抜き出すことで、やっと抜けました。

助かったあと、ずっとゲーゲーと吐きました。

私は理解するのが遅い子供でしたが、その時の経験から
死ぬということ、自分が世界から消えるということを
理解したと思います。

その事故は全く親には報告されず、後日パワーシャベルがその遊具を取り壊し、違う遊具に入れ替わりました。

昔は今では驚くようなことがよくありました。


かなり昔、ある地方の専門学校の卒業式に出ていた。私はそこでアニメーションを学んでいたが、授業態度が悪かったらしく、大きな単位を根こそぎ失い、卒業はできないだろうと思っていた。しかし、当日、グループで作成したアニメーションが最優秀賞をもらい、突然卒業できることになったのだ。

今思えばありがたい話なのだが、当時の鼻っ柱が高かった私は、卒業できることと最優秀賞をいただいたことを全く喜ばなかった。私はその時アニメーション志望から、画家志望になっており、表彰状と優秀賞の賞品を無造作にぎゅうぎゅうの鞄に詰め込んだ。

その日は大荷物だった。それは画家になるための家出をしてきたからで、当面の荷物と毛布を抱えていた。

前日の夜、父母に画家になるために家を出ると私は宣言した。父母は大変驚いたと思う。非常に人見知りで、一人で喫茶店にも行けないような息子が突然そんなことを言えば当然だ。父は私が学校を卒業したら兄と一緒に家業を継がせるつもりだったと言った。

父は画家という職業がいかに悲惨な職業かと私に言って聞かせ、泣いていた。しかし、若かりし私は、父の至極真っ当な助言を聞き入れず、結局父が折れた。

朝私が家を出る時、父はバンザーイバンザーイと見送ってくれた。そして5万円を手渡してくれた。当時の私にとって5万は大金で、絶対に画家になるまでは家には帰れないと、心に誓った。

無謀な私は卒業式に出てからそのまま、画家になるため、まず、知り合いの額縁屋に居候するのが計画だった。


私には絵の師匠がおります。
一緒に絵を描いていましたら、
お前は10年もしたらいい絵描きになっているだろうなと、

言われて、嬉しかった記憶があります。
あれから、とうに10年はすぎてしまい。

期待に応えることができず、申し訳ないです。


路上生活をしていたことがあります。

師匠が展覧会をしていまして、路上生活しながら、
毎日、弟子にしてくださいとお願いしたのです。

そのうち路上生活でのこじきの知り合いが増えてしまい。
一緒に残飯肉ですき焼きやったり、おかしな経験です。

美味しんぼでもおんなじ様な話ありましたね。


路上生活が2週間ぐらいすると、

体力と精神が限界に近づきました。真冬ではなかったですが、

雪が降る日もありました。

深夜私がベンチで震えていると、

突然、車が小さな段ボール箱を捨てていったのです。

その頃、大金が竹藪に捨てられていたなんて事件があった頃で、

てっきりその時それが、札束が入った段ボールだと思ったのです。

もう、絵描きなんてどうでも良い、世の中、金だと思い、

その段ボールを確保して人気のないところで、開いてみたんですよ。

そしたら、酷いことする人がいたもので、中身がずぶ濡れの猫の死体で。

涙が出るほど、怖かったです。


Kさん

義理の父が美術のミニコミのコミニュティを作っていた。私は身内の場所をいいことに、毎月その集まりで、大はしゃぎしたり、言いたい放題、素人美術論を吹聴したりていた。

おかしなもので調子に乗る若者を面白がってくれる人もいて、その一人が当時60才過ぎぐらいのKさんだ。

Kさんは非常に知的な方で、手紙をもらっても、達筆すぎて読むことができない。温厚で、私と意見が違っても、にこにこして「それは違うと思うよ」という感じ。

Kさんは元々絵のコレクターだった。お気に入りの画家は昔ピカソに匹敵すると思われていたxxxxという画家。しかし、その画家は時代が進むと鳴かず飛ばず、いつのまにやら美術界からは忘れられた存在に。Kさんは大量にコレクションしていたらしく、大変落胆されたらしい。

私のその頃お気に入りの口上は、美術は人に絶対必要で、最高の美術には普遍の価値があるというのだった。Kさんはこの話には、かなり引っかかったようである。

若い私にはわからないだろうが、価値の変わらないものなどない。価値を信じることは、時として、むなしいよということを言われた気がする。

Kさんは息子さんを自殺で亡くされており、若い私を面白がってくれたのかもしれない。ある時、義父経由で池田満寿夫の限定500部の画集をもらった。かなり高価なものだし、池田満寿夫に私は全く興味がなかったので、なぜそんなものを頂いたのかと、疑問に思っていた。

数ヶ月してKさんが自殺で亡くなったと聞いた。自分のコレクションを死ぬ前に自分の気に入った人にプレゼントしていたみたいだ。

息子を失い、コレクションは無価値に、それで人生に価値を見出して生きるのは、難しかったのかもしれない。

Kさんとの以前の議論での、私の意見は変わらない。普遍の価値は自分で見出すものだし、それを信じることは、楽しいし、重要なのだ。Kさんの方が間違っている。


コンサートで友部正人さんを名古屋まで迎えに行ったことがあります。
私はミーファーな大ファンで大緊張してたんですけど、
友部さんに『いや、久しぶり、元気だった』と言われたの。

私が画家の弟子になるため、上野の美術館の付近で路上生活してた時、私を見てたんだって。すごくうれしかった。


妻の持ち物だが、家に長新太と奈良美智の絵がある。 当時、奈良美智はまだそれほど高くなく、かつて河合塾の講師をしていて妻は教え子だったので作品を買ったらしい。

後年、奈良美智に憧れてか、一大決心して、奈良美智を扱っていた名古屋のユマニテギャラリーに自分の絵を持ち込んだことがある。

しかし『当ギャラリーは半年後に閉店します。ご迷惑をおかけしますので新しい作家さんとはお付き合いできません』と体良く断られる。常套句だと思っていたら、しばらくして本当にギャラリーは閉店してしまった。

有名作家の作品と自分の絵を階段にかけている。ここだけではあるが、私の作品は同等だ。

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